# 031
HIRONOBU KUBOTA
July 21, 2016

GENRES
国際協力
戦場ジャーナリストとして伝えたいのは、戦火の中にも一般市民がいるということ
戦場にあえて身を置き、危険を厭わずに取材を続ける久保田さんは、熱い想いと覚悟を持っていました。そもそも、どうしてそういう生き方を選ばれたのでしょうか。旅行雑誌のカメラマンから戦場ジャーナリストへと、久保田さんの運命を大きく変えた出来事とは。
Reported by Yoshino Horiuchi
戦場そのものより、そこで生きている人
— そもそも、どういったきっかけで戦場ジャーナリストへの道を歩むことになったのでしょう?
わたしは戦場ジャーナリストになろうとしてなったわけではありません。元々は、旅行雑誌の取材で東南アジアを飛び回っていたんです。すると、日本では見かけないストリートチルドレンやスラムが気になりだして、仕事とは別に、色々と話を聞いたり、写真を撮ったりするようになりました。
そして97年に初めてパキスタンに行った時に、ペシャワール郊外にあるアフガニスタン人の難民キャンプを訪れたんです。何日も通ううちに、本当に悲惨な状況だということがわかってきました。毎日何人も死んでいくんです。
— それで行動に移されたのですね。その状況をカメラに収めたり、インタビューで多くの人の本音を聞きだしたり。帰国後に出版社やテレビ局に持ち込まれたのですか?
そうです。でも全然ダメだったんです。業界用語で言うところの「切った張った」の写真じゃないから、というのが理由でした。衝撃的な流血シーンがないと、マスコミは取り上げてくれないんです。だからといって撮るのをやめても、現実に苦しんでいる人がいなくなるわけじゃない。結局、それから何度も日本とパキスタンを往復するようになりました。向こうでアフガニスタン人の友達も増えて、彼らの伝手で、当時のタリバン政権下のアフガニスタンも訪れるようになりました。
— どんなに取材を積み重ねてもマスコミが相手にしてくれないのは、相当もどかしかったんじゃないですか?
何よりも、これだけのことを日本人が知らないのがとにかく悔しくて。だから、写真展をすることにしたんです。2001年8月に銀座、次の9月は札幌で…というそのタイミングで911のテロが起きたんです。マスコミ各社がアフガニスタンの情報通を求めていました。それでわたしに白羽の矢が立ったんです。テレビや報道に出るようになり、取材の依頼も殺到しました。
だから自分としては、戦場ジャーナリストになりたくてなったわけではなく、たまたま通っていた土地が戦場になった、という感覚なんです。友達も大勢いますし。だからこそ、あの土地の真実を多くの人に知ってもらいたい。
— なるほど。久保田さんの写真集に、明るい子供たちの笑顔が多かったりするのも、そんな背景があったからなんですね。
人ですね。「戦場そのものより、そこで生きている人」です。死んだ人の映像はセンセーショナルで、「売れる」素材かもしれませんが、何度も見返したくなるものではないですよね。やっぱり生きている人を通して、その国のことを知ってもらいたい。それが未来に通じることだと思っています。
ー 久保田さんの想い、とても伝わってきました。わたしは、これまで戦場ジャーナリストという職業は、命を賭けて一攫千金の写真を撮りに行っているというイメージだったのですが、やっぱりそこまでして撮ってきた写真や映像は高く売れるんですか?
それが毎回赤字に近いんです(笑)。日本で講演などして頂いたお金で、取材費用をなんとか賄っている状態です。今回は、隣りの装甲車にミサイルが命中したことが絵になって、ようやく少しプラスになる程度です(笑)。
ー えぇ!! そんな危ない目にあっても!!
そうなんです。少し話は変わりますが、イラクやシリアなどで欧米人ジャーナリストと知り合う機会がよくあります。彼らと話してて、いつも一番驚かれるのは、「帰国したらバイトしなくちゃ」という言葉ですね。彼らは帰国したら1年くらい何もしなくてもいいくらいの収入が得られますから。
ー そんなに海外と日本では違いがあるんですか?
ジャーナリストの評価が日本とは全然違います。「世界に真実を知らせるために、危険も厭わない人」と見るか、「日本政府が行くなと言っているところに、自分勝手に入り込む奴」と見るのか。日本人の感覚では後者が多いと思いますが、そういう思考をするのは日本人くらいで、世界的に見てかなり特異なことなんだと強調したいですね。