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CONCEPT
これからのかっこいいライフスタイルには「社会のための何か」が入っている。社会のために何かするってそんなに特別なことじゃない。働いてても、学生でも、主婦でも日常の中でちょっとした貢献ってできるはず。これからはそんな生き方がかっこいい。r-libではそんなライフスタイルの参考になるようなロールモデルをレポーターたちが紹介していきます。

r-lib | 保坂和志 - 東京新聞3/29夕刊「じゅんかん記」

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東京新聞3/29夕刊「じゅんかん記」

Written by Kazushi Hosaka

小説的思考塾を一月からリモートで再開した。二〇一九の二月に始めて、だいたい隔月で去年の二月までやったが、コロナでその後は休んでいた。
 小説的思考塾は小説の書き方の教室でなく、「小説的思考」の場です。小説的思考というのはどういうことか? というと、評論みたいな論理的な思考だけが思考ではなく、小説は小説で論理とは全然別の様態の思考を使っている、しかしそのことが小説を書いている本人にさえも自覚されていない、ということ。
 たとえば、論理的思考は結論に向かって収束するけれど小説の思考は収束するとは限らない。小説の思考は無意識によるところが大きく、作者自身「どうしてそういう展開になるのか説明できない」。
 さらには、論理的思考は結論に向かって考えが確固としていくが、小説においては書き進むほどに世界が不確かになることもありうる。だから、論理的思考だけが思考だと思っている、つまり自分が論理的で賢いと思っている本当はたいしたことない人から見ると「これが思考と言えるのか?」というものこそ、無意識を動員した小説的思考たりうる(その代表がカフカだ)。
 私は『書きあぐねている人のための小説入門』とか『小説の自由』とか、小説のことを書くのが好きなんだが、ではどうして、ここではしゃべることにしたのかというと、しゃべり言葉は書き言葉よりずっと自由で、注意力がある人なら書き言葉よりずっと多くの情報、というより敢えて言わせてもらえば「知」を得ることができると考えているからです。
 思考は、論理的文章のように一本道で進むものではなく、池に投げた石の波紋が広がるように多方向に拡散する。それを文字による文章で感じてもらうのは難しいというか、やたら煩雑になるが、しゃべり言葉だったらそれをかなり再現できる、というよりパフォーマンスとして表現できる。
 以前あるカルチャーセンターの創作講座の先生が、私のキャラを文章から推察して、「物静かで思慮深い人」と言ったというのを間接的に聞いて私は、
「これはマズイ」
 と思ったのでした。その講師の読解力が浅いことはともかくとして(ノイズを聞く力がない)、私は自分の書くものが「思慮」によってよりも、「身体」や「空間」や「猫」や「雑音」を回路とした、落ち着きなさから生まれている、ということをわかってもらいたい。そのすべてが「小説的思考」なんだということを伝えるためには、なんといっても自分のこのしゃべり方やそのときの態度・動きを見せるのが一番だと。
 私は、作家と言われる職業ではあるけれど、書き言葉による伝達をあまり信じていない。
 私は小説が言葉の表現でなく、ダンスのように全身を使った表現に変わる時代が来ればいいなあと思っている。
 告知はもっぱらツイッターのみでしてます。次回は四月十八日に実施します。
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