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これからのかっこいいライフスタイルには「社会のための何か」が入っている。社会のために何かするってそんなに特別なことじゃない。働いてても、学生でも、主婦でも日常の中でちょっとした貢献ってできるはず。これからはそんな生き方がかっこいい。r-libではそんなライフスタイルの参考になるようなロールモデルをレポーターたちが紹介していきます。

r-lib | 編集長S - 【編集長コラム】 「?」→「!」→「~」

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【編集長コラム】 「?」→「!」→「~」

Written by Editor in chief



WIREDの若林編集長が解任らしい。直接の面識はないが、先日「WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017」にお邪魔させていただいたので驚いている。それと同時に紙媒体としての役目も終えるらしい。『WIRED』と『COURRiER Japon』の二誌だけが購読している雑誌だったのだが、そのどちらも紙媒体としては休刊になり、電子版へと移行してしまうという時代の趨勢を感じる。

感慨深かったので、イベントレポートを兼ねて少し掘り下げて考えてみたい。

まず若林編集長はイベントの祝辞でマクルーハンの言葉「機能するということは、時代遅れだ」を紹介された。また、刊行休止に関するお知らせの対談の中でも「何かが一周した感じ」という言葉が出てきていた。特にここ最近僕自身その思いが強くて、世間が騒ぐ「新しさ」に物足りなさを感じている。それはきっと、もっと漠然とした不安や畏怖が感じられるような新しさを求めているからだ。





僕にとって、新しさはいつだってそうかもしれない。そう思わせなければ新しさではない。新しさの定義をするときには、原理的に現在つかみきれない何か不穏なものが内包されていなければならない。僕らが普段使ってる「イノベーション」という新しさは、爽快感のある新しさだ。しかしそれは表層に出てきて洗練された、顕在化した新しさで、きっとその手前にあった深部ではもっと不穏なものが宿っていたはずだ。

もちろん、一般的な意味でいう新しさ、イノベーションが悪いと言っているわけではない。やはり社会にとってのイノベーションは、受容する側の態勢が整っていなければ利用されないし、その意味ではどうしても「機能するということは時代遅れ」になってしまうのだ。


ざっくりと言ってしまえば、イノベーションといわれる現象は「?」→「!」→「~」で表せる。ピカソの絵だって最初キュビスムは「?」であったわけだが、ほどなくして「!」の扱いになり、今では「~」の流れを作ったと賞賛されるわけだ。世間がイノベーションと呼ぶのは「!」が来た時からだ。「?」の時はどうしても理解できない不穏さがつきまとう。でも新しさが本当に旬なのは「?」の時だ。

新しいことは3歩先を考えてる人が2歩下がるか、時代が2歩近付いてくるのを待つかだと思っている。だから僕はいつも「?」がどこにあるかを探している。そこにしか旬の新しさはないからだ。


ここでいう新しさは、きっと手にしたいかどうかもわからない。そういう欲望を満たす予定調和には回収されないはずだ。生理的に警戒してしまうくらいの新しさが、本当に新しい可能性を秘めていて、それはよほど知的好奇心が無い限りはリスクを避ける選択に負けてしまうものだ。こう書くと、僕はきっとすごく特殊な新しさを求めてるんだと思う。

実際はそんなゼロイチみたいな新しさは無い。どうやったって先人の業績を頼りに進めていくと初期条件から自由になりにくいし、模倣の繰り返しから進化していく側面もあるからだ。それなら一体どこで新しさは、イノベーションは生まれるんだろうか。そんな余地はどこにも無い気がしてしまう。


新しさを生み出すプロセスにおける継承・連続性を考えると、今すぐに新しさの生まれる源泉はどこにあるのかという結論は出せない。(そんな固定された条件ではなく流動性のある条件なはずなので)しかし、連続性の中から次の流れを受け継ぐ者は、理解不能な不穏さを抱えながら挑戦しているのだろうなという気はしている。真のイノベーターは、切り拓いた先に何が見えるかわからないという状態で格闘しているのだろう。

その中でも、世に出る前に淘汰されてしまうものがほとんどだと思うが、そのプロセスを経ていればどんなものであれ、新しいと名付けてもいいんじゃないだろうか。それが世の中にどう評価され、どう受容されようとも。


では、不穏さの正体とはなんなのだろう?結果が及ぼす影響力の強さと不穏さが比例するのは間違いないだろう。原子力に対する不安のように、人類がその技術を適切に扱えなかった未来への恐怖のような側面も一部あるだろう。新しさを未来への不安と言い換えるというわけだ。でも楽観視する人によっては未来への希望と言うかもしれない。単純なテクノロジー信仰であれば、その後に起きる諸問題も全てテクノロジーが解決すると言い切ってしまうこともできる。


ここで不安や恐怖というのは、どちらに転ぶかわからない分岐点の後に人間が意図しない状況に進む場合を指し、人によっては好転するから希望だという解釈にもつながっていく。

もちろん物事は常に多義的解釈を可能にするから、そういった単純な分岐は起きないのでは?ということもある。しかし得てして画一的にテクノロジーを捉える人には、そういう見方で語る人が多いので、この際その路線で進めることにする。

ややこしい話になってしまったが、僕はそういった解釈が起きる手前こそが重要で、理解不能なものに対してどう臨むかということに尽きると思っている。理解不能なものに対して希望的観測はしにくい。明確な不安が生じる前の不穏さ。おそらく希望的観測や未来への恐怖は自分なりの理解が進んでから始まるものだ。つまりここで仮定した分岐点は、自分なりに消化した上で解釈が作動するスタート地点なのだ。その解釈の手前にある理解不能な「?」の不穏さを注目していなければ「!」の時にも、人の解釈によって受け入れるだけになってしまう。新しさが飽和し始めた今だからこそ、不穏さが剥き出しになっている新しさ、自分の理解を超える荒々しい新しさを求めていきたいし、実行している人を見ると本当に心強く思える。


今回受賞した方々も、今でこそイノベーションと賞賛されるものの、取り組み始めた当初は不穏さを秘めながら暗中模索で頑張ってこられたのだと思う。その新しさが顕在化して初めて報われる時が来たのかもしれない。受賞を改めて祝したいと思う。










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