内心、途方にくれながら残りの時間は過ぎていき、斉藤さんが解説してくれる言葉にも上の空という状態で、僕のザータリ難民キャンプの視察は終わりました。
当初予定していた自分が伝えたい物語を、都合よく切り出すことがありえないということは既にわかったので、これをどう形にするかを考えていました。
とにかくここで感じたことを、書くことを通して考えるしかない、ということがとても憂鬱だったし、すぐに物語を拾える感受性が失くなってしまったことに恐怖しました。
これが20代の頃にはわからなかった「老い」なんじゃないかと。
今振り返ると、それが自分の成長かなとも思えます。「欲しい物語」に安易に手を染めなかったことは評価していいのかもしれません。それと引き換えに、歯切れの悪い「判断の保留」と付き合い続けることになるのですが。伝えるという使命がある場合に、それがいいことなのかは、今でもまだわかりません。
さて、キャンプの視察が終わった後に、斉藤さんとジャーナリズムについて有意義な議論をしたのですが、会話の中で「これからのジャーナリズム」という言葉が何度か出てたので、そこから得た気付きを、僕なりに今回の事例に合わせて考えてみたいと思います。
wikipediaのように、インタラクティブに多くの人が参加して、情報が精査・蓄積されることは現代の情報社会では当たり前になっていますが、最近では、シリアの悲惨な映像が次々とアップされたように、SNSを駆使した市民ジャーナリズムが、現場からリアルタイムに発信する、ということも今までになかった形として認知されるようになりました。それと引き換えに、信頼性の乏しい個人の発信が可能になり、デマが拡散される危険性も高まりました。
そこでこれからは、そういった情報をいかに取捨選択しながら取り込むか、というリテラシーの問題が重要になります。フィードバックを受けて精査されていく集合知としての情報と比較して、大手メディアがいかに高い信頼性を担保できるかということも同様に重要です。
少し話が飛躍しますが、21世紀的な情報と市民の関係という意味では、今のシリア難民の人たちがその一番の体現者かもしれません。緊急時に関しては特に「情報」というものが、生き延びるための一番大切なリソースになるからです。
そろそろシリアを逃げた方がいいのか、どこを通ってどこに逃げるべきなのか、といったこれらの情報は本当に運命を決めてしまいます。
例えば、国境を越えるためのルートが3本あったとします。
そのうちの1本を通ろうとして諦めた人から「あそこを通るのはやめたほうがいい。1ヶ月前に親戚が皆殺しにされた。僕だけ直前に引き返したから助かった」と言われたら、普通は残りの2本を選択しますよね。
でも次の日に、「残りの2本もダメだ。先週通った奴らはみんな殺された。最初の1本は昨日通ったら大丈夫だったと連絡があったよ」と言われたらどうしますか?
「あいつは政府側の人間だから信用したらダメだよ。言われた通りの道を行ったら政府軍の待ち伏せにあうよ」と言われたら?
こうやって刻一刻と戦況が変わる場合に、1ヶ月前に危なかった、昨日は安全だった、という情報がどれだけ意味をなすんでしょうか。どの情報を信じるか。誰を信じるか。それを決めるのは自分です。
こういう時にはいろんなバイアスがかかると思います。「知らない人がたくさん死んでる道よりも、身近な人が殺された道のほうが不吉な感じがする」「嫌いな奴が言うことだから信用できない」「こないだは賭けてみて正解だったから、今回もうまくいくはず」
結局、本質的な問題でいえば、21世紀的なテクノロジーを使ってどう情報を収集しようとも、バイアスを取り払って決断するリテラシーは、アナログなスキルなのかもしれません。
自分で調べて、バイアスを取り払って自分で決断できる人には、今の情報社会は有利に働くかもしれませんが、そうでなければ情報が多すぎてどれを選べばいいかわかりにくくなった時代になったわけです。
「見たいものを見る」
「自分の判断(や思想)を正当化するために後付けで根拠を引っ張ってくる」
こういうことは、僕らも胸に手を当てて考えればわかるはずです。
あなたならどの道を選びますか?それはネットで調べたらわかりますか?誰かの言うことを信じて命を賭けた選択ができますか?
シリアから逃げてきた人たちの多くは、その試練を乗り越えてきたわけです。
今日もどこかを目指して、不確かな情報に賭けて、1本の道を選んで歩いている家族がいることでしょう。
つづく